仕事では、子どものケアをする親御さん達を時にケアし、逆に自分も元気をもらうこともある。私生活では、自分自身も子どもや家族をケアする立場でもある…。
管理人は「ケア」と密接にかかわる仕事をしているからこそ、ケアとは何なのか、ケアのある社会ってどんなものなのか…そういったことについても関心があります。
とはいえ、これは抽象的な話ではなくて、私たち一人ひとりに関係する、ありふれた営みなのだとも思います。
先日、『ケアしケアされ、生きていく(竹端寛(著))』という本を読み、日本に起きているケアレスの現状、そして著者の子育ての実体験から論じられたケアについての語りがとても読み応えのある本だと感じました。
迷惑をかけるな憲法
本当にこういった憲法が存在するわけではないですが、多くの人が囚われ、憲法のように従っている価値観として「迷惑をかけるな憲法」という表現がなされています。
右に倣え、みんなと同じがいい、空気を読んで行動する…。そんな「迷惑をかけるな憲法」に縛られる若者たち。
自粛警察や私人警察など、SNSなどを中心に自分の「正義」を振りかざす人たち。
「頑張ること」、忖度や「わきまえ」を「やるべきこと」として考えて、他者にもそれを求め、知らず知らずのうちに同調圧力の一部になっている人たち。
日本にはそういう、他者の目を気にすることを求めるような空気感が常にある気がします。私もそんな価値観にさらされてきた一人であろうと思います。
著者はそれを「昭和九八年」的世界であると表現しながら、ケアが奪われている世界でもあると指摘しています。
「昭和九八年」的世界!
そう、今や時代は令和なのにも関わらず、根底に流れている日本人的な国民性や、日本人の関係性の持ち方は、昭和のままアップデートされないできているのではないかという主張です。
なるほどー!と管理人もとてもしっくりきました。
頑張れば報われる、評価されるためには長時間労働は仕方ない・・・
令和という時代にあっても、そういった価値観がどこか根底にありながら生きている私たちは、体が悲鳴をあげていたり困ったことがあったとしても、
「周りに迷惑はかけられない」
「こんなこと言ったら評価が下がるのではないか」
などと思って、もやもやどろどろした気持ちがある時も人にうまく頼れなくなってしまいます。自分で何とかしようとしたり、もやもやを見ないようにしたり、自分の本当の気持ちに蓋をしてしまうことにもつながります。
「頑張れば報われる」は、「頑張らないなら、報われなくても仕方ない」とセットになると、「頑張らない、ありのままの状態が認められない」という価値観も内面化されていきます。
竹端寛『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマー新書)より
頑張らない自分、どんな自分も時にはあっていいという「ありのまま」が受け止められず、自分で自分を責めてしまうようになると、自己肯定感もなかなか育ちにくくなってしまうのではないでしょうか。
そういう「頑張れば報われる」精神は、自己責任論にも繋がっていくし、困っていたとしてもさらなる孤立や孤独を生む要因となるように思います。
不確実な世の中で、何を大切にしたいのか
将来自分がどんな風に生きていくのか…未来は目に見えません。この先どうなるんだろう、というような不確実な社会に身を晒すことって怖いですよね。
世界情勢だったり、日本の経済状況だったり、安全保障だったり…未来のことは不確実です。
そんな不確実さの中で、何が自分にとって大事なのか、自分の唯一無二のものなのか。
そういった自分の価値観が自分の人生を生きていくうえでは大事になってくると思います。ですが、そういう自分の「個性」や「固有性」は、自分ひとりで頭で考えるだけでは見えてこないものもあるのではないかな、と思うのです。
自分の見たくない「影」や「スキーマ」に自分ひとりで気づくことって難しいのです。見たくないものを見ないで済むのならば、無意識に見ないようにして過ごしてしまう。自分の見たくないものを含めてそのまま受け止める姿勢が、不確実さに身を置くためには必要なことなのに…。
だから、答えの見えない、方向性の見えない中で自分ひとりで解決しようとすることは逆に、自分を大きな不安や孤独に追い込んでしまう危険性があると言えます。
共に思い合う関係性
筆者は、これからの社会を「ケア的」にしていくために必要なのは「共に思い合う関係性」が大事だと指摘します。そして、ケアレスな関係性を盲目的に継承することをやめてみませんか?という投げかけをしています。
筆者は自身の子育ての中で「ケアし、ケアされる」経験を通して、自分の影に気づき、価値観を見つめなおすきっかけになったと語っています。
私も日々の子育てで感じていますが、子どもは自分のやりたいこと、不満に思うこと、素直な気持ちを全身で、全力で表現してきます。予定をたてても、予定通りにいかないことの方が多いです。忖度だったり、合理性だったり、大人の論理が全然歯が立たないと感じる場面も多く、そのたびに辟易しながら「コントロールしたがっている自分」に気づかされることもありました。
関係性のダンスを踊りながら他者性に気づいていく
筆者は、親子でその親子ならではの「関係性のダンス」を踊りながら「他者の他者性」に気づいたり「己の唯一無二性」に出会いなおすことができていったと語っています。イライラする時は、自分が許せないスキーマや価値観と出会っている時なのだと。
すこし難しい言葉ですが、「他者の他者性」とは、「人って(それが自分の子どもであっても)自分と違う一人の一個人なんだ」とも言えるし、「人には、自分には知りえないそれぞれ固有な価値観がある」ということに気づくことであるとも言えます。
そして、自分がつい感情的になったり、何か言いたくなってしまう時というのは、自分の中の価値観が大きく関係している場合があります。その価値観は人によって全然違うし、自分では格好悪いと思う部分かもしれませんが、それも含めて「己の唯一無二性」だと認めることが自分の理解にも繋がっていくように思います。
そう考えると、子育てを通して親は一方的にケアするだけでなく、ある場面では癒されたり、ケアをされている面もあると考えられます。そしてイライラなど負の感情であっても、子どもと関わることで色々な価値観に気づくことは、自己理解や価値観の広がりに繋がるポジティブな側面もあるということが言えます。
まとめ
まず、目の前の他者の他者性を知ろうとすること。
同調圧力的な関係性や、支配ー依存的な関係性ではなく、お互いの考えや違いを知るためにじっくり対話したり、全力で向かい合ってみることが大切なのかなと思います。
思い通りにいかないことも多いけれど、「他者は自分とは違う価値観を持つ他者なんだ」と思うことで、「じゃあ、どうしていこうか」と話し合うこと、それぞれの気持ちを分かち合っていくことが可能になると思います。これは子育てにおいても、身近な他者と関わる時にも、留めておけると「ケアし合える関係性」に繋がっていくように思いました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。